大学時代はクリスチャンでもないのにキリスト教について学んだ。もちろん聖書についても授業がある日はあのクッソ重い新共同訳聖書を持ち歩いていた。キリスト教の信仰対象であるイエス・キリストは「水をぶどう酒に変えた」「病気の人を治した」などの奇跡に関して注目されることが多いが、個人的にはイエスの人間性がなかなか面白いと思っている。
一番好きなのがいちじくの木のエピソード。新共同訳聖書にはこのように書いてある。
【マルコによる福音書 11章】
12節 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
13節 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
14節 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
(中略)
20節 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
21節 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
22節 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
23節 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
24節 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
25節 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
(26節 <底本に節が欠けている個所の異本による訳文>もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。)
このエピソードの行き着くところは「神を信じ、祈りを信じれば何でもできる」ということだが、結論までのプロセスをたどると
イエス「腹減った。あ、あそこにいちじくの木あんじゃん!実食べよ〜っと」
→近寄ったら実がなかった(だってシーズンじゃないし。ちょっと恥ずかしい感じ)
→イエス「お前の実なんか誰も食べないからな!!」と暴言
→翌日、いちじくの木が根元から枯れてた
→ペトロ「イエス様SUGEEEEE!!!!!」
→イエス「信じれば絶対にその通りになるから(ドヤァ)」
という流れ。つまりある種の八ツ当たりでいちじくの木が枯れたのである。しかも自身の言動を「信仰の賜物やで」と正当化するイエス。枯れたいちじくの木が不憫だ。Youtuberだったら炎上しかねない話である。最後のイエスの発言に対して弟子たちのリアクションが記載されてないので気になるところだが、やっぱり「SUGEEEEE!!!!!」「さすがイエス様! おれたちにできない事を平然とやってのけるッ そこにシビれる!あこがれるゥ!」となったんだろうか。
ちなみにマルコによる福音書によると、イエスはこの後
【マルコによる福音書 13章】
28節 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
29節 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
30節 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
31節 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
と語っている。いちじくの木の成長度合いから、シーズンの見定め方を学んだのだろうか。「あ、もうちょっとで実がつくな…」って感じで。もしかしてイエス様、いちじく好き?