ゆとり。
この悪意を込められた三文字に現在の20代は何度も苦しめられ、これからも侮辱され続けるだろう。
「ゆとり教育は失敗だった」
世間の定説はこれ。「失敗」が「不完全」なのか「不適切・不適当」なのか、どちらを意味するかは知らない。いずれにせよ、どっぷり浸かったわたしたちは負の産物らしい。「ゆとり世代」とくくられ、バカにされ、ちょっと問題を起こすと「これだからゆとりは…」といわれる始末。
「この子たちはゆとり教育の被害者なのよ」
ウチの母が保護者会かなにかで耳にした言葉だ。もちろん、発言者は同級生の母親。保護者もそういう認識ならしかたない。「わたしたちは教育制度のせいで、なんの役にも立たない出来損ないにさせられました」と認めざるを得ない。
ただ、リアルタイムで教育を受けたひとりとして、これだけは言わせてほしい。ゆとり教育が成功する要因は、当時の日本になかった。
※わたしが暮らす仙台市は、全国にさきがけてゆとり教育(特に週休二日制)が導入されたところだったらしい。他県の同世代と若干ズレがあるかもしれないが、その点はご留意いただきたい。
ゆとり教育とは?
一般的に「平成生まれ=ゆとり教育」という認識の人が多いらしい。
ドラマ「ゆとりですがなにか」では、昭和62年生まれ(放送時2016年の29歳)がゆとり第一世代として取り扱われている。
ゆとり教育 - Wikipediaを要約すると、
- 段階を踏んで取り入れられたので、定義はあいまい
- 1970年代の「詰め込み教育(暗記中心、テストが終われば忘れられる脆い知識)」が問題視→自力で想像し思考する力を身に付けることが重要、と考えられるようになった
- 提唱されてから4回、10年くらいのスパンで学習指導要領が改訂されている
- 導入したら学力が低下した(らしい)ので、2011年の施行以降は「脱・ゆとり」が掲げられている
わたし個人は「土日は自分の興味があることに集中してよい。好きな科目はたくさん勉強してよい。得意分野を極めてよい。そんなすばらしい教育だ」という認識だった。そのための週休2日、秋休み、総合的な学習の時間、絶対評価。
「ひとりひとりは違う人間だから、足並みを無理にそろえるのをやめましょう。個性を認め、尊重し、大切にしましょうね」という方針だと思っていた。
現実
①新教育指導要領を受け入れられない保護者
小学校中学年くらいから教科書がコンパクトになり、ランドセルの中がすっきりして見えた。「学年があがったから、文字がちいさくなって教科書もスマートになったんだ」と、年長者の証と捉えていた。
「教科書薄っ!ちいさっ!」と、母は言った。1学年で学習できる内容が減ったことが不安だったようだ。昭和中期の生まれ。暗記教育全盛期を生き抜いた世代に「自分で考える力を養う」なんて言っても、ピンとこないだろう。
先日、母に「ゆとり教育(新教育指導要領)が何か、導入されたときに学校で説明会とかあった?」と尋ねた。「なかった。ニュースとかで取り上げられてるのを見ただけだから、ふわっとした感じでしか理解できなかった」らしい。
②かみ合わせが悪かった理想と現状
小学校低学年は隔週で土曜日に通学する日があった。完全に週休二日になったのは中学年くらいだったと記憶している。
その頃、ウチの母はパートの仕事をはじめたので、土曜日は家にほとんどいなかった。両親共働きは既に珍しいことではなかった。「鍵っ子」と呼ばれる同級生も、クラスの4分の1くらいはいたと思う。
酒鬼薔薇聖斗による神戸連続児童殺傷事件が記憶に新しく、警戒した大人が子どもだけの外出を許してくれなかった。学校でよく配られた公共施設の割引券はあまり使わなかった。
家にいるとゲームがあった。ポケットモンスターの赤・緑が爆発的ヒットを記録。ゲームボーイの電源を入れ、毎日遊んだ。電池がすぐ無くなって叱られたが、外で遊べない以上、やることが限られる。夕方から放送されるアニメも充実し、欠かさず見ては翌朝クラスメートたちと語らった。室内の娯楽が増えはじめた頃だった。勉強しないでずっと遊びたい、楽しいことをしたいと思うのは、わたしたちの世代に特別多かったわけではないと思う。
本来であれば、自分で考える力は学校教育のみならず、家庭教育でも培われることを想定しての週5日制のはず。子どもが自由に外に出て学ぶ機会、そして家で親とともに学ぶ機会も減少する時代が既にはじまっていた。
いわゆる「古きよき時代」だったら、施行があと20年早ければ、違う結果になったかも知れない。
③イマイチよくわからない「総合的な学習の時間」
小学校中学年か高学年の総合的な学習の時間、ノートを1冊用意させられた。「調べたいこと、興味があることをノートに書いたり貼ったりしなさい。継続して行い、定期的に先生へ提出しなさい」みたいなことを言われた。
悩んだ。いきなりそんなことを言われても。先生の意図するところを汲み取れなかったが、とりあえずポケモンや好きなアニメ・マンガのことを書いたら怒られることだけは想像できた。日記を書いたり、新聞記事を貼り付けたりしてお茶を濁した。
クラスメートは、絵が得意な子は何かを模写したり、算数が得意な子は自分で問題を作って解いたりしていたと思う。それに対して、先生は「OK!」と赤ペンで書かれて返すだけ。たまに、ちょっと面白いことを記してる子のノートを授業で発表していた。
評価は定期的に提出することなのか、きれいで見やすいノートを作ることなのか、面白いトピックを見つけてくることなのか、よくわからなかった。わたしが出したノートも、本当にあれだけでよかったのか未だ不明だ。
どうやら、当時の授業内容は学校単位や学年・教員単位でゆだねられていたらしい(通学した小学校はほぼ全学年1クラスの小規模校だったので、教員の意向が学年全体の意向だった)。
総合学習の時間は教科書のない、自由な時間。教科書ありきの職業である教員、まして自身もそんな教育を受けたことも聞いたこともない人が、自力で十分に指導するのはかなり難しいことだったと思う。
そして興味関心があることは、ひとりひとり違う。能力も違う。明確な評価基準がない。
教員も生徒も、手探りで進めていた。それだけは肌身で感じた。
④「自分で考える能力」は受験に反映されなかった
ご存知の通り、新学習指導要領が導入されたところで高校受験も大学受験も制度内容は大きく変わらなかった。ちょっとペーパーテストで頭をひねる問題が出されたところで、求められるのは知識(暗記)量と内心点であることに変わりない。AO入試や推薦入試も、見られるのは評定平均値。
学力がすべて、評価がすべて。ディベートや小論文、もしくはそれに順ずる何かを受験科目の必修にでもしない限り、その生徒がいかにすばらしい思考能力を持っていたとしても評価されない。これが現実だ。教員が熱心にならなくて当然だろう。
総括
ゆとり教育の目的はすばらしいものだったが、それを円滑に導入するための社会的環境、制度、大人たちの理解、その他もろもろが不足していたため「失敗」した。
逆に、①保護者の理解②教員の指導材料③生徒へ必要性の訴求 以上の三拍子が整っていれば「成功」した。と、思う。
現在、脱・ゆとりを目指して、平成二桁生まれの世代ががんばっているはずだ。
日本の未来を守るためにもわたしたちを「失敗」として片付けず、経験が後世へ生かされるよう、関係各所にきちんと分析・研究してほしい。
![]() ゆとりですがなにか [ 岡田将生 ]
|
まだ本編見てないのでTSUTAYAで借りたい。
![]() ゆとりですがなにか [ 宮藤 官九郎 ]
|
書籍版から入るのは邪道?